行った展示書き出し

就職活動で行けない日も多かったから思ったより少ない…

今月はまだ9件。

5/17 信じられるデザイン展(Design hub) (http://www.designhub.jp/exhibition/2012/03/15-1500.html

provoke #1 James Augerによる、takramの田川氏との講演会にも参加(おもしろかったから何か書こうとは思うけど、メモが最近見あたらない…)

5/20 立花英久の塑像展(東青山)

5/22 叢 展示販売(リムアート)

5/23 キギ(ggg) 

    広川泰士〜旅の途中〜 (G8)

5/25 イ・ブル展

デザイン教育について

ドイツの教育学者であるシュタイナーの「子供の教育」という本を読んでいる。

賛否両論あるようだけど、私はシュタイナー自身の危惧と似たような気持ちも持ったことがあるので、その事については完読した時にメモろうと思う。

この本についてはさておき、先日、教授と友人を含む4人で話していたときに思ったことがあるので書き留めておく。

友人がデザイン情報学科の教育体制について違和感を持ったらしい。

具体的にどのようなものかというと、話はこうだ。デザイン情報学科には、海外の大学から来た訪問教授を指導員に充て、ひとつの課題を短い期間で進行するというものがある。あくまで訪問教授の授業であり、ラフなイメージを持たせるために、わたしたちはこれを「ワークショップ」と呼ぶ。このワークショップは4〜5人のグループで進める。海外からの訪問教授ということで、英語力のある生徒を、それぞれのグループに均等に配置する。このことで英語だからわからない、ということは大まかな目で見ると無くなる。という事実がある。

友人はワークショップに参加したうちの一人で、英語は得意ではない。しかしグループメンバーに恵まれ、ワークショップは大成功に収まった。しかし彼女は、自分が英語ができないから、英語ができる人たちに翻訳を任せっきりにしてしまい、そのことを問題と感じたそうだ。そして英語のできない人たちがそのことを「申し訳ない」と思うシステムになっているという。このような思いをわたしたちにさせているシステムはいかがなものか、ということを言っていた。

それならばいっそのこと、大学1年生のときからもっと英語に触れられるような教育システムを作っておくべきではないのか。

この意見を聞いて彼女のことを随分優しいと思ったのだが、私にはそれ以前の、メタな、認識の問題があるように思えた。

全員が気持ちよく、気兼ねなしにワークショップに参加できることがいいことである という認識がある

ということだ。この「気持ちよい」「気兼ねない」という気持ちは、ある意味で責任を放棄した気持ち良さと自由さであるように思う。責任を放棄して軽い気持ちで参加した学問に実りはあるだろうか。個人個人の能力に左右される人間関係は、それもまた勉強にならないのだろうか。

もうひとつ問題ではないかと思う点があり、それは教育体制はサービスではないということだ。彼女がサービスだと捉えてはいないと思うのだが、もっとも英語に触れられるような教育システムはデザイン情報学科に既にある。私たちは1年生の頃から英語でサマリーを書かされるなどをした。すべて英語で執り行われる授業もある。そのなかでもっと気持ちの良い教育体制を要求するのは、大学生としてはこの態度は受け身なのではないだろうか?

もちろん質のよい教育は大学が教育機関である限り要求されて当然ではあるが、わたしは質のよい教育を大学に要求していない。期待していないといったほうが正しいだろう。大学は、勉強の質が個人個人に委ねられる機関であり、単にそれを評価してもらう機能を持つものだと思っている。

自分がダメ人間であるだけに、教育の問題については関心がある。。ほうなのかな。

幸いにもわたしは師匠のゼミの一期生であり、ゼミのシステムの基盤を一緒に作っていこうという態度のもとにゼミを進めている。私は、10年経って所属ゼミが存在していたら、その時も同じ姿勢でいてほしいと思う。生徒と一緒に考えなければ、(生徒に考えさせなければ)よりよい教育機関になれないだろう。人が変わるから常に変化していられる。

質が変わらないものは、常に変化しているものだけだ。

ちょうど、細胞も同じく常に変化している。本質のわたしたちの魂は変わらない。

私が居たゼミには、常に変化を続けていてもらいたいと願う。一緒に考えるのだ。生徒を受け身にさせないという意味でも。

3/18 松井冬子展@横浜市立美術館

松井冬子展@横浜市立美術館

2回行って、一度目はほとんどキャプションを読まなかった。

一部制作過程も展示してあった。思考の形跡があった。

まるでわたしたちが多摩グラ受験のときに行なってきたようなラフスケッチを経て、本番に着手していた。

絵そのもの以外、の手法や手順は、やっぱり見る側にとっては興味深い。

どの絵にも厳しさがあった。自由という言葉からかけ離れたイメージの絵たち。

作者が取り組んだテーマごとに展示しており、見やすさはあった。

絵に関して言うと、この絵の前で立ちすくんだ。涙が止まらなかった。

http://matsuifuyuko.com/works/008.html

観たあとにどっと疲れる感じの展示だった。

忘れられない。

観に行った展示書き出し

ここ二ヶ月で観に行った展示を書き出して、

気になったものだけメモを残すことにした。

3/18 松井冬子@横浜市立美術館(その夜はご両親と食事をとったと書いてある)

3/20  SWICH@日本大学芸術学部江古田キャンパス

4/4 ラ・リングア・オチアイ

4/11 G8(渋谷克彦)山野さんと初めて顔を合わせて、友達と飲む

4/13 井田照一@京都国立近代美術館

4/14 源光庵 @京都 鞍馬

4/19 ggg(TDC) 資生堂ギャラリー(さわひらき)

4/20 ものすごくうるさくて、ありえないほど近い

4/21 はじまりの記憶@渋谷イメージフォーラム

5/2 ジャクソン・ポロック@国立近代美術館、ひっくりかえる展@ワタリウム美術館

5/4 ゲルダ・シュタイナー&ヨルク・レンツリンガー 力が生まれるところ@水戸芸術館

5/6 ロベール・ドアノー @東京都写真美術館

あとは、フランス料理屋さんでバイトを始めた、くらいかな。

永遠の僕たち -restless-

ざっと見たところ、大切な日のことを書いていなかったので書いておく。

googleカレンダーにもこの予定が書いてなかった。

2/10だったと思う。

大好きな人と、大好きな映画監督の映画を観に行った。

永遠の僕たち という、ガス・ヴァン・サント監督の映画。

とても綺麗でファニーだった。

どうしようもなく悲しいラストに、片方の主人公が微笑む。

私はその微笑みに感銘を受けた。ああ、笑っていなきゃいけない、と思った。

何があっても、周囲の人を少しでも幸福に持っていくには、笑っていなければいけない。

彼に言うと、「僕はそういうふうにはできないな」と言っていた。

でも私は女で、彼は男で、、

私の友達にそのことを話すと、女の子は笑ってなきゃいけないって思うよ、と言ってくれて、本当にそのとおりだと思った。

どれだけ悲しくても笑っていなければいけない。

生まれながらの使命と責任である。

楽しい雰囲気を創りださなければいけない。

それが少しでも彼の幸せになるのなら、私の友達の幸せになるのなら…

映画を観たあとは、有楽町の素敵なお店に飲みに行って、

そのあと、とても重大なことで言い合いになった。

和解した今だから思うけれども、重大なことなんて無いのかもしれない。

自然の流れに身を任せただけなのかもしれない。

私も彼と同じスタンスで生きようと思った。

何も問題ではない。そのかわり、すべてが問題になりうる。

一緒に観た最後の映画になるのかもしれないな、と思った。

もしも誕生日を一緒に過ごしてくれるのなら、映画に連れて行ってとせがんでみることにする。

■日本の新進作家展 @東京都現代美術館

西野壮平さんという方の作品がグラフィック的におもしろい表現をしていた。

見ている人を惹きつけると思う。わかりやすかった。入っていきやすい。

http://www.soheinishino.com/jp/index.html(西野さんのwebサイトです)

あとは構成的な写真を撮ってる人が多いかな、という感じかな。

全体的に展示表現は普通の写真と同じ。

写真そのものを発光させているような展示をしていた人もいた。

■見えない世界の見つめ方 @東京都現代美術館

ストリート・ライフ ヨーロッパを見つめた7人の写真家たち

東京都写真美術館にて。

7人のそれぞれの作品がざっと白い壁にシンプルに展示してある。

写真の内容についてはほとんど触れられていない。

7人の中のひとり、ウジェーヌ・アジェという写真家の作品が気になった。

ウジェーヌ・アジェ(1857-1927)

フランス生まれ。19世紀末の消えゆくパリの街並みや人々の暮らし、建築物の内部の装飾の詳細部分などを撮影し、画家たちのための資料として販売する。これら生計のために記録した約8000枚の写真は、晩年、マン・レイに認められ、ベレニス・アボットによって世に広められた。

彼女の作品を見ると、階段の手すりとかシャンデリアとか、装飾的なものについてたくさん写真を残している様子が伺える。彼女は「消えゆくパリの街並みや人々の暮らし」を美しく思い残したいと思ったのではないだろうか。

彼女の作品を見ていて山本耀司の「美しいものが消えゆく世の中、その美しさを取り戻すために仕事をしている」という言葉を思い出した。

彼女は1857年生まれで、私の生きている世界とは違うものがたくさんあったのだと思う。

私も美しいものが消えゆく世界に対してそれを取り戻そうとしていっているところがある。

時代を超えてみんな美しいものが消えて行ってると思っているのかもしれない。

いつの時代の老人たちが「最近の若いのは」と言っているのと同じ感覚なのかもしれない。

でも消えゆくものを時間の流れから救い出すこと、その行為は自然の摂理に逆らっている。

自然の摂理に従えば花といい美人といい、美しいものが生き残るようになっているようだ。

宮崎駿が「どんなにひどい世界になっても、ワクワクすることは残ってるんですよ」というような事を言っていた。

どんなにひどい世界になっても、私の感覚が古びていっているだけなのかもしれない。

大好きな人の子供を授かるということに少し思いを馳せてみたら

本当に顔がふにゃっとするくらい幸せになれたので、

私は幸福で健全な人間だということに胸をなで下ろす。

結婚したいけれどもたぶん難しいだろうし、

子育てなんてもっと難しいとは思うけど、生涯子供だけは欲しいと思っている。

人間は生活していてほとんど自分のことを生き物だなんて自覚しないけど、

女性はどうやらこれで自覚することになるらしい。

自分で産んで、もともと自分で何も自分のことができない小さな人間を育てていくっていう過程で自覚するんだって。

”育てる過程”

育った過程なんて自分にとって当たり前すぎて何の重みも感じないけども、

育みを与えるほうになると生き物を自覚するってすごくおもしろいことだと思う。

自分が大きな流れの一部であるということを自覚するっていうのは、もう本当に当たり前すぎて想像するしかない。

自然の流れの1部になる気持ちは子供を生んで育てるときと死ぬときになれるものなのかな。

死ぬなんて瞬間すぎてわからないのかな。

どうしても自分を自然から離して考えてしまう。

TIQ展 感想メモ

http://tiqten.info/

慶應義塾大学 山中デザイン研究室 の学生の卒業制作の個展を観に行きました。荒牧 悠(あらまきはるか)さんという方の作品。

「そのものらしさ」がどういうものであるか?というのを具体的にモノに落とし込んでみるという試みだった。

みなさんが鉛筆を見て、”これは鉛筆だ”と分かる要素は何でしょうか?

TIQ展では、”あるものを、そのものたらしめる要素”を浮き彫りにするため、
ものの持つ要素を変形した作品を展示します。

それら作品たちを既存のものや、並列して展示してあるものと比較したり、結びつけて考えたりすることで
思わず不思議な感覚におちいってしまうはずです。

見て、体験して、みなさんに何かを感じて頂ければ幸いです。

印象に残ったのは、

「バスに乗り、メモ帳ににペンをあてがった状態で座り、バスの揺れを筆跡で記録する試み」

だった。”あるものを、そのものたらしめる要素”という考え方からは離れているような気がするけど、試みとして素直におもしろいな、と思っているのでメモっておきます。”何かを可視化する。”のひとつ。

これはメモ帳が展示されてあったんだけど、これだけじゃ何かわからなくて、その「なんだろう?」加減のセンスがよかった。説明の仕方も言葉をほとんど使わずに、作品と、試みの写真のみの構成。

この作品だけじゃなくて全体的に言葉がほとんど無い展示だった。

本人が意識したかどうかわからないけど、展示からいかに文字情報を排除するか、ということをやっていたように思えた。

うまいこと言葉を使うのは大事だけど、やっぱり大量の言葉は読もうと思わない。

みなさんが鉛筆を見て、”これは鉛筆だ”と分かる要素は何でしょうか?

TIQ展では、”あるものを、そのものたらしめる要素”を浮き彫りにするため、
ものの持つ要素を変形した作品を展示します。

とてもわかりやすいし、これだけで全体を見通せるよい文章。

わかりやすいのだけど、作品を見たときに「わかった!おもしろい!そういうことか!」と鑑賞者自身に思わせる気持ちのいい余地がすべての作品にあったと思う。たぶんこれは文字をなるべく排除してるからだと思う。「自分で感じさせる」。

岡本太郎の展覧会を観に行った時、おばちゃんがたくさんいて、絵よりもキャプション文章を読んでいる時間のほうが長かった。岡本太郎はそんなこと絶対望んでないと思うけど、これが現実。文字で解説してもらわないとわからないのだ。

友達に自分に伝えたいことがあるなら次はアートをやれ、と言われたけどやっぱりデザインがやりたいです。

ゼロ年代のベルリン メモと感想 ”鑑賞者にどのような記憶を残すか”

全体的に作品は良かった。

映像が多め。

Christian Jankowskiという人のキリストのオーディションの作品がとても良かった。

審査員3人のおじさんが、キリストのイメージに最も合致する人物をオーディションで選んでいき、そこでクスっと笑ってしまうような会話が繰り広げられていく(ドイツ語の作品だったけど日本語訳がすごく重要だった。訳し方でまったく違う作品になっただろう。オモシロイ日本語訳をしていた)ファニーな作風で鑑賞してるときは楽しい時間なんだけど、同時に鋭く心に突き刺さるものもある。その匙加減が絶妙だった。映像作品はわかりやすくかつ引き込まなければ見ない。

鑑賞している間に「楽しい」とか「綺麗」とかプラスの感情を持って貰うと、伝えたいことがどれだけおぞましいものや目を向けたくないものであっても伝わる可能性が高い。ただ「楽しい」「綺麗」だけになっちゃいけないんだけどね。

あともう一個いいのがあったけどそれはまたあとで。

一緒に見に行った子が全体を通して

の3つがあると言っていた。何かしらの引力があれば目を向けることができて、それはのちのち記憶に残るのだと思う。

ゼミ展を終えてから、”鑑賞者にどのような記憶を残すか”ということを考えている。

私はいかに自分の身近なところに価値あるものが存在するか、(自分自身とその周辺に目を向ける)ということを伝えていきたいのだけども、伝え方はいくらでもある。

展示は、

あまりわかりやすくしすぎるとつまらないから心に残らない。簡単に「わかった」と思わせちゃいけない。自分で頭を使うことで発見があり、ちゃんと伝わるのだと思う。あるいは、わからなくても時間差で、いつかわかるときが来ることもあるかもしれない。でも、「いつかわかるときが来る」というのにも結局何かを残さないと伝わる日はこないわけ。忘れ去られてしまったら伝わる日は来ない。

言葉でも映像でも絵画でも音楽でも何でもいいけど、伝わるにはわりと長期的に記憶に残る必要があって、そのためには「わからない」もしくは強い「わかった!」が必要なのではないのかな。忘れ去られてしまったら伝わる日は来ない。(二度目)

わかりやすさについて、twitterでの友達とのやりとり(私のpost)

誰にもわかるものが偉いなんてことはないと思うけど、ユニクロみたいに誰にでも良さがわかるものが浸透しやすいんだと思う。そっちのほうが利益は上がるだろうから、偉く思われやすいのかな。これだけたくさんの文字情報があるとわかりやすいものを選んじゃうよ理にかなってたりわかりやすいものがいいなんてこれっぽっちも思わない。自分がいいと思ったものが各々絶対だと思う。私もすごくそう思うから、そういうことをわかりやすく伝えるにはどうすればいいのかなって思ったりするそれを人に伝えたいと思ったときに「わかりやすさ」は結果として必要になってくるからやっぱり考えようによっちゃあ偉いのかもしれない。わかりにくいのがいいんですよって言い切っちゃってもいいのかもしれない。

別の友達が、「ジャスが料理してくれたものの味や見た目は全部覚えてるけど、ジャスが食べさせてくれたToshi Yoroizukaのケーキは味も見た目も覚えていない」と言ってたのがとても印象的だった。それは、調理をした結果だけではなく手間をかけられたプロセスを感じ取っているからなのかもしれない。

たぶん先述のなんだかわかんないけどずっと見ていられるものの結果だからなんじゃないのかな。toshi yoroizukaのケーキは綺麗で美味しいけど、「わかった」と簡単に片付けられるから、綺麗で美味しくても何にも残らない。

何にも残らないのは無かったのと同じだと思っているけどみんなは違うと思う?